『ボクは坊さん。』

 

ボクは坊さん。DVD

ボクは坊さん。DVD

 

 

いつもは連休になると,プチ旅行を企画したりするのですが,年末に海外旅行をして金欠なので我慢。今回の連休は,ドライブしたりDVDをレンタルしたりして,まったり暮らしました。

この連休中に観たDVDのひとつが,『ボクは坊さん。』です。前半はギャグ要素満載でしたが,後半,主人公が語る仏教の教説のなかに,心の琴線にふれた部分があり,「縁」や「生死」について考えさせられました。

「命をもってるすべてのものは,深いところでつながっていて,共通する何かを共有している。そしてそこに境はない。そう考えたら,他のすべてのものはすべて自分と同じということになるから,自分自身を愛するみたいに愛せるようになる。そしてそんな風につながっていると思えば,今までの関係と変わらないように思える……」

5年来の片思いがぜんぜん実らなくて,半年ほど前,ついに絶交状態になりました。せめて友達の状態にまで戻そうと頑張ったのですが,友達であることすらも拒絶されました。最後の電話では,言いたくてずっと我慢していたことを全部ぶちまけたので,昔に戻りたいとも今は思っていません。いまはもう苦しむ必要はないかなと思ってます。

でも5年も想っていたから,ふとした瞬間に思い出してしまう。そのたびに悲しみと怒りの混ざった感情がこみ上げてきて,つらい思いをします。だけど映画の台詞を聞いて,「ああそうか,今は話はできないし,お互いに何をしているかは知らない状態だけど,いまこの瞬間をお互いに生きているっていう点ではつながっているんだなぁ……」と思えて,暖かい気持ちになりました。

話もできない,顔も見られない状態でも,まだ残る「つながり」がある。それが自分のつらさをたとえ一瞬であっても緩和してくれる。そして痛みを感じなくなっていけば,忘れていけるんじゃないか。そんなふうに思いました。

「ボクは生まれる前の感じと,死んだ後の感じって似てるんじゃないかなって思うんです。そしてそれが一番普通の状態なんじゃないかなって。だから生きているっていう今のこの状態は,とても短い,すごく特殊な時間なんじゃないかなって。そんな気がします。だって人はなんで生まれたときに泣くんでしょうか。もしかしたら,穏やかな眠りから覚まされてしまうからかもしれない。そしてまた死ををもって,穏やかな眠りへと帰っていく。だとしたら,生きている時間ってお祭りみたいなものかもしれない……」

誕生も死も,自分でコントロールできるものではありません。生きる時間は皆バラバラだけど,その「生きている」時間の中身が濃くても薄くても,等しく期限不明のなかで,とりあえず「生きる」。それが「生きる」という仕事なのかなぁと思います。

死にいく人たちは,そのつとめを終えた人たち。だったら,かけてあげる言葉は「おつかれさま」かなぁと思います。残された側は,やはりさみしいし悲しい。それが理不尽だったり突然だったりすればなおさら。でも死に逝く人たちの側にたって考えてみたら,僕たちは「生きるべき期限を生きた」ことをねぎらってあげたい。そして残された僕らが,自分の「生きる」務めを四苦八苦してでも果たす。これが一番なのかなぁと思ったりしました。

モレスキン再開

モレスキン雑記帳を再開しました。やっぱりモレスキンはいいです。ハードカバーの表紙も,ノートをまとめるバンドの緩さも,紙の分量も,ホントにすべてがちょうどいい。

 

Caderno Clássico, Preto, Capa Dura, Sem Pauta, Tamanho Bolso (Classic Notebooks)

Caderno Clássico, Preto, Capa Dura, Sem Pauta, Tamanho Bolso (Classic Notebooks)

 

 

自分の場合,仕事のスケジューリングやメモは,業界専用の手帳に書きます。だからモレスキンは,日々思ったことを書き留める雑記帳。自分との対話のためのノートです。

「再開」というからには,もちろん以前にもモレスキンを使っていました。たぶん5年くらい前から始めてて,合計3冊は書いたと思います。その頃ちょうど片思いに苦しんでて,やり場のない気持ちを発憤し,自分をなだめるために,モレスキンに気持ちや教訓なんかを書いていました。書きつけると,それで不思議と心が浄められる感じがするんです。

そしてたまに読み返すと,自分でもハッとするようなメモに出会います。世の中に自己啓発書は数多くありますが,しょせんは他人の成功体験なんですよね。一方自分の日記は,今まで生きてきた自分が,自分に宛てて書いたものです。だからただの雑記であっても,冊子の大部分のページがゴミみたいな内容であっても,1%の砂金のような自分のメモと出会う。そのメモはどんな自己啓発書よりも説得力があり,心に刺さります。

「100円ノートでいいじゃん」って人もいますけど,自分はダメでした。実際,ダイソーにも通称「ダイスキン」と言われる類似品があるんですが,やっぱり違う。違和感のある靴を履いている感じになります。モレスキンはノートにしては高価ですが,多くの人に愛用されているだけあって,ちょっと神経質な自分のような人間の感覚にもなじむように作ってあるんだと思います。

モレスキンを中断してたのは,単純に保管の問題。自分の部屋には家族が勝手に入ってきてしまうので,机に置いてたら最悪。恥ずかしくて合わせる顔がありません。それでどうしようかなーとか悩んでるうちに,1年くらいたってしまって,紙面に気持ちをはき出すこともできませんでした。

そして先日,フラっと寄った喫茶店で,紙を広げて頭の中で考えていたことをいろいろと書き出してみたら,びっくりするくらい気持ちがスッキリ!昔,モレスキンへの書き込みで気持ちを落ち着かせていたことを思い出しました。何とかプライバシーを保護しながら,モレスキン雑記帳を再開できないものかとアマゾンを探していたら,鍵付きの箱を発見。モレスキンがすっぽり収まるサイズ。

 

 

正直作りはチャチだし,本気を出せば鍵をぶっ壊せるつくりですが,さすがの家族も鍵を壊してまで日記を見ようと思わないでしょうし,自宅で保管するにはこのくらいでいいのです。喜んで,さっそくモレスキンの1ページ目に記事を書きました。これから自分がどんなことを綴っていくのか,ワクワクしています。

 

『歎異抄』

 

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 

「善人なをもつて往生をとぐ,いはんや悪人をや(善人でさえ浄土に行けるのだ。まして悪人なら,行けないわけがない)」」

悪人正機説」と呼ばれるこの教えは,色んな本を読み多くの思想にふれることが簡単になった現代人にさえ,インパクトを与えます。当時はなおさら,この考え方が人々を困惑させたに違いありません。

この意味は,親鸞の説く「他力本願」との関係で理解できます。浄土宗・浄土真宗では,阿弥陀仏の本願を重視します。阿弥陀仏は,どうあがいても煩悩から逃れられず苦しむ人間を哀れに思い,自らを信ずる者を漏らさず救うとする誓いを立てた。浄土宗・浄土真宗は,こうした阿弥陀仏の救いを信じ,念仏を唱えることで救済されると説きます。出家や荒行は不要となるのです。

つまり冒頭の悪人正機とは,「阿弥陀仏は,出自や健康や運に恵まれて善行を積める人も救う。しかし,阿弥陀仏は煩悩に苦しむ『すべての人』を救うと誓ったのだから,悪に手を染めてしまう弱い人たちは,なおさら阿弥陀仏の救済の対象となる」という意味になります。

では『歎異抄』の説く「悪人」とは,「仏教の語る自力救済できない者」という意味なのか? つまり日常的な意味での「悪人」は救われないのか? 第十三条の,親鸞唯円(『歎異抄』の著者とされる)の対話に,このことを論じた箇所があります。

 

唯円房は…(中略)…いはんことたがふまじきか」と,かさねておほせのさふらひしあひだ,つつしんで領状まふしてさふらひしかば,「たとへば,ひと千人ころしてんや,しからば往生は一定すべし」とおほせさふらひしとき,「おほせにてはさふらへども,一人も,この身の器量にては,ころしつべしともおぼへずさふらう」ともまふしてさふらひしかば,…(中略)…「これにてしるべし,なにごともこころにまかせたることならば,往生のために千人ころせといはんに,すなはちころすべし。しかれども,一人にても,かなひぬべき業縁なきによりて,害せざるなり。わがこころのよくて,ころさぬにはあらず,また害せじとおもふとも,百人・千人をころすこともあるべし」とおほせのさふらひしかば……

 

親鸞が著者の唯円に「1000人殺してきてくれ。そしたら浄土に行けるから」と奇妙なことを言います。唯円が「できません」と言うと,親鸞は「そうだろうね。人が思いどおりにできるなら,浄土に行くために1000人殺すだろう。けれども1人だって殺せない。それは人を殺す縁がないからだ。よい心を持っているから殺さないわけじゃないんだ。逆に自分にそんなつもりはなくても,宿縁によっては1000人を殺してしまうこともあるだろう」と述べます。

我々凡夫は,自分の意思で悪を犯すほど大胆ではないし,悪を封じるほど強くできてもいない。今まで悪に無縁だった人が,ふとしたことで次の瞬間に悪を犯すかもしれない。「カッとなった」「さみしかったから」「生活していくため」「大切な人を守るため」……いろんな理由で突然,人は悪人になりえるのです。「サイコパス」と呼ばれる人たちも,自分で選択してそうなったわけでもない。

今の日本は,被害者やその家族の人権保護やケアが脆弱だと聞きます。確かにその側面もあるでしょう。その課題は克服されていかねばならない。罪を犯した者が相応の制裁を受けるのも,社会秩序の維持のためにはやむなしでしょう。しかし一方で,すべてを自己責任に帰結させ,「いまはたまたま悪人ではない傍観者」が無責任な発言をしている気もします。自分だってひょっとしたら,明日にでも罪を犯す側にいるかもしれないのに。

この『歎異抄』は,「人はみな非力な凡夫である。そうした非力な我々も救われるのだ」と述べます。究極の救済ではないでしょうか。歴史小説家の司馬遼太郎も,「無人島に一冊だけ持って行けるとしたら,『歎異抄』を選ぶ」と言ったそうです。僕はその気持ちがわかるような気がします。完全に無垢な人間などいません。罪悪感におそわれたとき,この本を読むことで救われる気がするのです。

『ひとり終活』

20代の頃から,老後のことを心配して眠れなくなることがしばしばありました。今後も結婚しないのは間違いないし,自分の場合,甥姪もいません。今は職場があって社会的なつながりはあるし,親も兄妹もいるからいいけれど,退職する頃に両親はもういないだろうし,兄妹もいつまで頼れるかわからない。僕にとって老後の孤独は,深刻な問題です。

健康に暮らしている間のさみしさは,何とかしのぐしかないと思っています。けれども入院が必要になったり,なくなったときにはどうしよう……。誰かに看取られながらの死を切望しているわけではありませんが,せめて自分の遺体が他人様にご迷惑をかけるのだけは避けたい。死んでまで,他人に迷惑をかけるなんて嫌です。

なので,とりあえずこの本を読んでみました。

 

ひとり終活: 不安が消える万全の備え (小学館新書)

ひとり終活: 不安が消える万全の備え (小学館新書)

 

 

制度的なものは,よくわかりました。終活についても,色んなサービスを利用すればある程度はカバーできると思うし,今後こうしたサービスは拡充していくと思います。それにしても入院中の介助や死後の処理にいたるまで,カネ・カネ・カネなんだなぁとさみしくなったり。

そしてやはりというか,筆者も言うように,精神的にも社会的にも,人的つながり以上のセーフティネットはないなぁと実感したところです。家族を持てない自分は,友人だけが頼りなんだろうけれど,友人作りもなかなかうまくいかない。信頼関係って育てるのに時間かかるし,あるとき突然絶縁状態になったりする。

いろんなサイトで「友達をつくりましょう」なんて軽々しく書いてあるけど,「それが一番難しいんだけどな」とつぶやいてしまうのは,僕だけでしょうか。今できることは,数少ない友人とのつながりを大事にしながら暮らしていくことだけです。

カンボジア旅行記 SIM・スマホ・ツアーについて

老婆心ながら,これから旅行する人に役立つようにアドバイスを。

スマホとSIMについて

いまどきスマホは情報収集に欠かせませんよね。スマホがあれば,たいていの情報収集はなんとかなります。天気や地図,計算,カメラ,メモなど,活躍の幅は広いです。

シェムリアプ国際空港であれば,空港を出たすぐのところに,プリペイドSIMの販売店が並んでます。5分もあればセットアップしてもらえますから,カンボジアだけに滞在するなら,現地のSIMを買うのがベストと思います。僕はSmart社の通話1$分+6GBで10$のコースを選びました。かなりリーズナブルだと思います。

f:id:passpied_blog:20180108171021j:plain

Smart社のSIM

キャリアはいくつかありますが,カンボジア国内だとMetfoneかSmartが有名かな?この2社のロゴは,カンボジアを旅行してればしょっちゅう目にするはずです。Smartのカバーエリアは思ったより広く感じました。4Gはさすがに都市部だけですが,離れてもけっこう3Gが入ります。通信の安定感は日本のキャリアにはおよびませんが,あまりストレスも感じませんでした。自分の場合,画像や動画を現地でアップしてないからかも。

そうそう。日本国内でバックアップをとっておくのと,ショップの人に本体を渡す前に言語設定を英語にしておくのは,忘れないようにしましょう。日本で使っているSIMは返してもらえますが,なくなさないよう大切に保管します。帰国後,SIMを入れ替ればOKです。

カンボジア以外にも何カ国か周遊するとなると,その国の数だけSIMを買うのはもったいないです。そういうときは,周遊型のローミング専用プリペイドSIMを買ってセットしていくといいですね。これなんかがそうです。

 

 

日本でもSoftbank回線につながりますので,日数が許せば日本でセットしていくといいと思います。ただ,このSIMはタイ国内では使えないようですし,データ専用SIMです。通話はほとんどしないでしょうが,カンボジアではIP電話が法律で禁じられているみたいなんで,国際電話をかけたりする人は要注意です。スマホSIMロックが解除できない場合は,海外Wi-fiルーターをレンタルすることになるでしょうね。

ちなみに「iPhoneは高価なので,転売目的などで盗まれる可能性がある」と言われてます。確かにカンボジア人の収入を考えるとiPhoneは高級品ですが,シェムリアプやアンコールワットは外国人だらけですから,みんなごく普通にiPhone使ってますよ。

むしろiPhoneを持っていると,タプローム,プレアヴィヒア,ベンメリアなどでは,現地ガイドが「パノラマ撮影機能」でいい写真を撮ってくれます(日本語ガイドのいるツアーを申し込んだ場合)。iPhoneは操作が世界共通なので,どの国でも理解して使ってもらえるんです。なので,盗難や水没(特に雨季)に気をつける必要はありますが,持って行けるならiPhoneがベストと思います。

f:id:passpied_blog:20180104163020j:plain

この写真もパノラマ機能を使って撮ってます

 

 

ツアー・ガイドについて

せっかく一人旅だし,孤独な旅を味わうぜ……っていうのもいいですが,アンコール遺跡がはじめてなら,現地ツアーを使った方がいいと思います。僕は歴史にはある程度通じているつもりだし,英語の看板もなんとか読めるので,一人でもそこそこ楽しめる自信はあったのですが,知人から「アンコールワットは現地ガイドの説明を受けないと,半分しか楽しめないよ」とアドバイスをもらっていたので,日本でアンコール遺跡とプレアヴィヒアのツアーをそれぞれ申し込んで参加しました。

結果的には申し込んでてよかったですね。ガイドの話を聞いて,遺跡の歴史や意味が深く理解できました。「ラーマーヤナ」とかも,インドの叙事詩ってくらいの認識しかなかったのですが,ガイドの説明を聞いて親しみがわきました。現地の人にとっては「日本昔話」みたいなもんですけど(本当は『古事記』に相当するものだが…),日本だと文学研究の対象みたいな扱いですもんねぇ。

それから,写真映えする位置や撮り方をガイドはよく知ってます。ブログにはあげてませんが,思い出に残る写真がいっぱい撮れました。これはガイドなしだと厳しかった。アンコール遺跡は観光客がひしめいているから,1人だと割りこんで自撮りなんて無理だったと思います。その点,ガイドは「さぁ,ここで撮りますよ!カメラ出してください!」と促してくれる。とても心強かったです。

ツアー参加者の一人が「今回でアンコール遺跡は3回目なんだけど,前回まではガイドをつけてなかったから,よくわかんなかったんですよね。だから今回はツアーに参加しました」と言ってました。ロンリーウルフな気分を味わいたければ,アンコールパスの3日券でも買って,別日に一人で回れば十分と思います。

自分はVELTRAで申込みをしました。ツアーが嫌なのはいちゃつくリア充が邪魔だからですが(笑),ありがたいことにこちらには一人旅限定ツアーがありました(笑)。アクシデントに見舞われて日程がグチャグチャになりましたが,それでも参加した皆さんがやさしくて,話も弾んだので個人的には楽しめました(逆に言えば,僕みたいにツアーが予定通りにいかないのは,覚悟しといた方がいいです)。

みなさん,よい旅を!