自分の人生を愛する

 自分はずっとクローゼットだったので、若い人たちをうらやましく思う。今も、自分が何者かを明け透けに言うことははばかられるけれど、以前に比べるとずっと周囲の理解は深まった気がする。自分は30代半ばまでずっと、こっちの友達がいなかった。こっちの独特の文化が好きになれなかったし、顔も性格も分からない人に会うのが怖かった。

 30代半ばの頃アプリができて、インターネット上ではやりとりをしていた人と会う機会ができた。初対面から話が弾んだ。生まれたときから苦しんできた、「誰も理解してくれない」という孤独からあいつが救ってくれた気がした。あいつの趣味やセンスが大好きだったし、話も楽しかったから、どんどん好きになっていった。

 でも彼は僕を求めていたわけではなかった。告白した後、あいつはどんどん離れていった。追いかければ追いかけるほど、逃げていった。逃げていくから、自分の心には焦りが募っていった。メールには返信をくれたけど、それでかえって望みがあると勘違いしてしまって、次の返信が素っ気なくなるとまた心の奈落に落とされた。「絶望にもがいている人は叶わない希望にすがり、それを信じる」と誰かが言ったけど、まさにその状況だった。同情や良心の呵責からもらったほんのわずかの善意に、自分は希望を抱いてしまっていた。

 1年前、完全に望みを絶たれた。「もういいかなと思う」…あいつが言った言葉。その言葉を聞いて今まで我慢して心のダムに封印してきた、いろんな思いが決壊してあふれてきた。積もりに積もった恨み言を電話口ではき出した。人生で初めてあんなに激昂した。身体の内側から紡ぎ出される呪詛の言葉を自分で聞きながら、「自分、こんなに他人に怒れたんだな」と別の自分が思っていた。

 それからは連絡もとっていない。もうとるつもりもない。執着していたのは「自分が変われば、仲良くしてくれるんじゃないか」という期待があったからだ。でも完全に嫌われ、関係が修復できる可能性はゼロになった。1ヶ月前、最後の連絡手段も全部絶ち、SNSから電話にいたるまですべて消した。もうあいつがどう暮らしているか知らないし、こっちから発信することもない。

 ただ、そのおかげで今はこの数年で失っていた「自分」を取り戻しつつある。執着していたときは相手に気に入られることに必死で、自分らしさを失っていた。趣味や好きなもの、自分の信念…そうしたものがすべて無意味に思えていた。「あいつに好かれない自分は、無価値だ」それがあのときの自分の思いだった。

 でも「あきらめる」は、「あきらかになる」こと。絶望は「望みが絶たれること」。電車の最終便が行ってしまったら、一瞬「どうしよう」とうろたえるけど、家族・友人に電話してむかえにきてもらうか、タクシーに乗るか、歩いて帰るか。とにかく人は次に進もうとする。それと同じ。

 あのあと、不思議と自分をいたわる愛情が芽生えてきた気がする。休みの日には、誰にも会わず家にこもって、音楽を聴きながらコーヒーを飲み、書類仕事を進めているだけなのだが、自分好みにカスタマイズした部屋ですごすことそのものが、ストレスを遠ざけてくれる。

 あいつとの関係に苦しんでいた数年間、いろいろと見失っていたけど、得たものも多い。一番の収穫は、こっちの友人。再び孤独に追い込まれた自分は、一時期むさぼるようにアプリでの出会いを求めていた時期がある。会ってくれる人がまず少なかったし、その後会った人ともほとんど関係が切れた。でも片手で数えられる数ではあっても、今も交信が続いている友人がいる。彼らからは、何にも代えがたい好意や励ましを得た。彼らなくして、今の自分はないと思う。彼らには、感謝しかない。

 年齢も年齢だし、自分はパートナーができない運命なのかもしれないと思う。でも最近は、それを受け容れられるようになってきた。それが自分の人生なら、その人生をできるだけ愛せるようにするだけ。いいなと思った音楽を愛し、いいなと思ったマグでコーヒーを飲み、たまに友人とお茶やお酒をする。100%満足なんてないけど、50%の「まあいいか」な暮らしを満喫していければいいじゃないかと思う。