『歎異抄』

 

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

新版 歎異抄―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 

「善人なをもつて往生をとぐ,いはんや悪人をや(善人でさえ浄土に行けるのだ。まして悪人なら,行けないわけがない)」」

悪人正機説」と呼ばれるこの教えは,色んな本を読み多くの思想にふれることが簡単になった現代人にさえ,インパクトを与えます。当時はなおさら,この考え方が人々を困惑させたに違いありません。

この意味は,親鸞の説く「他力本願」との関係で理解できます。浄土宗・浄土真宗では,阿弥陀仏の本願を重視します。阿弥陀仏は,どうあがいても煩悩から逃れられず苦しむ人間を哀れに思い,自らを信ずる者を漏らさず救うとする誓いを立てた。浄土宗・浄土真宗は,こうした阿弥陀仏の救いを信じ,念仏を唱えることで救済されると説きます。出家や荒行は不要となるのです。

つまり冒頭の悪人正機とは,「阿弥陀仏は,出自や健康や運に恵まれて善行を積める人も救う。しかし,阿弥陀仏は煩悩に苦しむ『すべての人』を救うと誓ったのだから,悪に手を染めてしまう弱い人たちは,なおさら阿弥陀仏の救済の対象となる」という意味になります。

では『歎異抄』の説く「悪人」とは,「仏教の語る自力救済できない者」という意味なのか? つまり日常的な意味での「悪人」は救われないのか? 第十三条の,親鸞唯円(『歎異抄』の著者とされる)の対話に,このことを論じた箇所があります。

 

唯円房は…(中略)…いはんことたがふまじきか」と,かさねておほせのさふらひしあひだ,つつしんで領状まふしてさふらひしかば,「たとへば,ひと千人ころしてんや,しからば往生は一定すべし」とおほせさふらひしとき,「おほせにてはさふらへども,一人も,この身の器量にては,ころしつべしともおぼへずさふらう」ともまふしてさふらひしかば,…(中略)…「これにてしるべし,なにごともこころにまかせたることならば,往生のために千人ころせといはんに,すなはちころすべし。しかれども,一人にても,かなひぬべき業縁なきによりて,害せざるなり。わがこころのよくて,ころさぬにはあらず,また害せじとおもふとも,百人・千人をころすこともあるべし」とおほせのさふらひしかば……

 

親鸞が著者の唯円に「1000人殺してきてくれ。そしたら浄土に行けるから」と奇妙なことを言います。唯円が「できません」と言うと,親鸞は「そうだろうね。人が思いどおりにできるなら,浄土に行くために1000人殺すだろう。けれども1人だって殺せない。それは人を殺す縁がないからだ。よい心を持っているから殺さないわけじゃないんだ。逆に自分にそんなつもりはなくても,宿縁によっては1000人を殺してしまうこともあるだろう」と述べます。

我々凡夫は,自分の意思で悪を犯すほど大胆ではないし,悪を封じるほど強くできてもいない。今まで悪に無縁だった人が,ふとしたことで次の瞬間に悪を犯すかもしれない。「カッとなった」「さみしかったから」「生活していくため」「大切な人を守るため」……いろんな理由で突然,人は悪人になりえるのです。「サイコパス」と呼ばれる人たちも,自分で選択してそうなったわけでもない。

今の日本は,被害者やその家族の人権保護やケアが脆弱だと聞きます。確かにその側面もあるでしょう。その課題は克服されていかねばならない。罪を犯した者が相応の制裁を受けるのも,社会秩序の維持のためにはやむなしでしょう。しかし一方で,すべてを自己責任に帰結させ,「いまはたまたま悪人ではない傍観者」が無責任な発言をしている気もします。自分だってひょっとしたら,明日にでも罪を犯す側にいるかもしれないのに。

この『歎異抄』は,「人はみな非力な凡夫である。そうした非力な我々も救われるのだ」と述べます。究極の救済ではないでしょうか。歴史小説家の司馬遼太郎も,「無人島に一冊だけ持って行けるとしたら,『歎異抄』を選ぶ」と言ったそうです。僕はその気持ちがわかるような気がします。完全に無垢な人間などいません。罪悪感におそわれたとき,この本を読むことで救われる気がするのです。